芭蕉の場所を追いかけて(伊賀上野編)

上野は芭蕉のふるさと

 いよいよ本丸に乗り込む覚悟である。芭蕉ゆかりの土地は日本全国数あれど、関わり合いの濃さで伊賀上野を超える所はないと思う。平成の大合併により、現在は「伊賀市」であるが、ここでは「伊賀上野」という地名を使います。伊賀上野は三重県なので、近畿地方に入るのかどうかわからないが、伊賀地方は関西の文化圏と言ってもいいと思う。我々奈良市民にとっては、本当にひと山越えたら伊賀上野という感覚。回りを山に囲まれた小盆地。戦国時代に築かれた上野城を中心とする城下町である。
 芭蕉さんは正保元年(1644年)、上野の赤坂町に生まれる。幼名金作、のちに宗房。29歳に江戸へ下るまで、幼少年時代、青年時代を伊賀上野で過ごす。江戸へ下ってからも、51歳大坂で客死するまでの間、故郷伊賀上野へは計11回も帰っている。俳諧師としてひと旗あげるために故郷を離れ、江戸入りした芭蕉だが、故郷への思いは強く持ち続けたようである。にもかかわらず、死に際した芭蕉の遺言は、「亡骸は近江の義仲寺へ運べ」だった。故郷のことがずっと気になりながら、結局は故郷を捨てたのではないかという思いが強い。
 相変わらず猛暑の続く8月某日、「東へ向かう」とだけ妻に言い残して出立する。なぜか妻は無関心を装っていた。本当に無関心なのかもしれない。

芭蕉翁記念館。入ります。
芭蕉に関する資料が数多く収蔵されています。「芭蕉さんの肖像」展を見学しました。
記念館の入口にすくっと立つ翁。
忍者屋敷にも少し心動きましたが、今日は入りません。
くノ一の姿が!
俳聖殿です。大きな建物ですが、翁の旅姿を表しているとか。屋根が旅笠、八角形の庇は袈裟、それを支える柱は翁の杖、「俳聖殿」の扁額は顔を表します。
上野城。あー城下町。
城跡からの眺め。
回りは山です。
上野公園入口の句碑。

〜やまざとはまんざい遅し梅の花〜
だんじり会館。入りません。
前に句碑が並んでいます。
〜きてもみよ甚べが羽織花ごろも〜
「自然(じねん)碑」です。
伊賀市役所。
句碑を捜していると、市職員の方がとても親切に案内して下さいました。
〜升かふて分別かわる月見かな〜
これも自然碑。
「くノ一」めしや。入りません。
芭蕉翁生家に到着。
〜古里や臍のをに泣くとしの暮れ〜

久しぶりに故郷の生家に帰ってきた年の暮。自分の臍の緒を手に取ってみると、幼い頃や亡き父母の姿が思い出されて涙にくれる。
芭蕉翁生家です。入ります。
表札は「松尾」さん。
ピンぼけの写真ですみません。
へっついさん。これもピンぼけ。
「貝おほひ」を執筆した釣月軒(ちょうげつけん)です。
「貝おほひ」は、芭蕉が自筆で刊行した唯一の出版物です。この出版を機に、江戸へデビューします。芭蕉29歳。
芭蕉の木が植えられています。
釣月軒横の句碑。

〜冬籠りまたよりそはん此はしら〜
ビルの名前は、もちろん芭蕉ビル。入りません。
芭蕉翁故郷塚のある愛染院。
上野の門人が芭蕉の遺髪をもらい受け、ここに故郷塚を建てました。
愛染院の句碑。

〜家はみな杖にしら髪の墓参り〜
故郷塚入口。
近鉄伊賀線広小路駅通過。
上野天神宮。江戸進出のきっかけとなった、「貝おほひ」をここに奉納しました。
上野天神宮の句碑。

〜初さくら折りしもけふはよき日なり〜
本殿の天井にありました。十二支で表す方角に、それぞれ主要な土地が書かれています。

子(北)水口、卯(東)津、午(南)大峯、酉(西)笠置などです。
松尾神社。芭蕉さんを祀っているのでしょうか?
市内を大行進し、蓑虫庵到着。入ります。
〜古池や蛙飛び込む水の音〜

代表句だが、詠まれたのは江戸深川の芭蕉庵のそばにあった池とされる。深川芭蕉庵に建てられていた句碑を、この場所に移設された。
〜よくみればなづな花さく垣ねかな〜
蓑虫庵です。芭蕉が最も好んだ草庵で、上野の門人服部土芳の庵。
近くの路上に立つ句碑。芭蕉のこの句にちなんで、蓑虫庵と名づけられた。

〜みのむしの音を聞きに来よ草の庵〜
出た! くノ一電車です。
ローカルな雰囲気たっぷりの近鉄伊賀線。
近鉄上野駅。大正時代の建物です。
駅前に立つ芭蕉翁の像。でかい!
何を思うか松尾芭蕉。