恭仁京跡
今造る 久邇の都は 山河の 清(さや)けき見れば うべ知らすらし
(大伴家持 6−1037)
三香の原 久邇の都は 荒れにけり 大宮人の うつろひぬれば
(田辺福麻呂 6−1060)
滅んでしまったものには美があり、郷愁を感じるものだが、夢途中にして生を全うすることなく滅んでいったものには、とりわけそれを感じる。恭仁京は、天平時代の政治不安定と社会不安を背景にして、聖武天皇が遷都を計画した都である。半ば無理を承知で造った都だけに、荒廃も早く、わずか4年足らずで次の難波宮へと彷徨は続く。
恭仁京跡の高台に立つと、周囲を南山城の山々に囲まれ、近くを大河木津川が流れ、平城京とは比較にならないほど自然環境に恵まれているのがわかる。大極殿跡の土壇の上には、空しく礎石が並ぶ。家持がほめちぎった山と川の眺めは、今も昔も変わらない。
聖武天皇の夢と絶望が地下に眠っているのだろうが、現在はすばらしく気持ちのいい市民公園となっている。サルスベリの花が美しく、犬の散歩をする人たちがいる。すぐ横の小学校は、昔なつかしい木造校舎だ。
歌碑
隣の小学校