上町台地の巻


 元禄七年(1694)年9月、芭蕉は大坂入りする。体調悪く、悪寒、頭痛に襲われるが、9月20日頃に少し回復する。9月26日、四天王寺近くの「浮瀬(うかぶせ)亭」において句会を催す。浮瀬亭は江戸時代の大坂を代表する料亭で、当時は海岸線も近く、高層建築物もなく、大阪湾を間近に、遠く淡路島まで望むような眺望を誇ったらしい。芭蕉、蕪村、馬琴らをはじめ、当時の文人が多く訪れた。
 その「浮瀬亭」の跡が、現在☆光学院の校地内にある。芭蕉や蕪村が訪れ、句も残しているので「蕉蕪園(しょうぶえん)」と名付けられている。

 ☆光学院を訪問する。校舎建替工事中で取り込み中だったが、守衛さんに見学を申し出る。「本来は予約していただいた方のみ、ご入場いただいております。」とのこと。そこを何とか・・・「もう今晩帰っちゃうんですよ」と、なぜか東京弁で訴えると、入場を許可してくださった。36ページにわたる詳細なパンフレットまでいただき、恐縮しました。☆光学院の守衛さん、お世話になり本当にありがとうございました。

浮瀬亭跡、蕉蕪園を見学します。
芭蕉「松風句碑」

〜松風や軒をめぐりて秋暮れぬ〜
芭蕉「旅懐碑」

〜此秋は何で年よる雲に鳥〜

雲は去り、鳥は飛んでいく。この秋は老いの寂しさがとりわけ身にしみて感じられる。
芭蕉「所思碑」

〜此道や行く人なしに秋の暮〜

秋の夕暮れの道には誰もいない。私と共に歩む人は誰もいない。
蕪村「浮瀬句碑」

〜うかぶ瀬に沓並べけり春のくれ〜
蕉蕪園からの眺め。300年前は、海もきれいに見えたことだろう。
蕉蕪園を散策。
☆光学院の前の道は、天王寺七坂のひとつ、愛染坂です。
大江神社の境内に入ります。
本殿です。
大きな「夕陽岡」の石碑があります。
大江神社の芭蕉句碑。

〜あかあかと日はつれなくも秋の暮〜

 有名な句ですが、これは「奥の細道」紀行の際、北陸で詠んだもの。この一帯が「夕陽丘」と称するのにちなんで建碑したらしい。でも実際には、芭蕉が詠んだ太陽は夕陽ではなく、昼の太陽だとのこと。
 この句碑は「四吟塚」と称され、短冊を四枚張り合わせたような形をしている。

 
大江神社のお隣、愛染祭で有名な勝蔓院です。
本堂です。
重要文化財の多宝塔。
映画のオールドファンにはなつかしい、「愛染かつら」の舞台となった名木です。
上町台地を行進。浄春寺というお寺の門前に、芭蕉先生のお墓がありました。このような供養塔は、全国に無数にあるようです。
口縄坂。左は織田作之助の文学碑です。
夕陽丘高女がこの場所にありました。
口縄坂を下から見上げます。あまり口縄 (へび)には見えませんけど。
坂の下のお寺に、このような貼り紙が。
「口とぢて蛇坂を下りけり」という句を芭蕉が詠んでいるとのこと。どこを調べてもそんな句は載っていませんでした。うーん謎だ。
浴衣姿の女性が坂を上ります。
下寺町を北上。お寺がずらーっと並んでいます。
源聖寺坂を上ります。
レンガを埋め込んだ、大阪市選定の歴史の散歩道。
生国魂神社到着。
上方落語の祖、米澤彦八翁の碑。
浄るり神社参拝。芸の道に精進できますように。
涼しげな滝が流れています。
芭蕉さんの句碑。

〜菊に出て奈良と難波は宵月夜〜

元禄七年(1694)年9月、芭蕉は大坂入りする。9月9日の重陽の節句にちなんで詠んだ句。奈良から暗峠を越え、難波に着いたころには日も暮れ、空には宵月夜が美しく光っていた。
この後芭蕉は病状が悪化し、10月12日に最期を迎える。
というようなことが書いてありました。「仁左衛門」は「仁右衛門」のまちがい。
西鶴さんです。相変わらず元気そうです。







生国魂神社をあとにします。