芭蕉の場所を追いかけて(大和編)
くたびれたのはどこ? の巻
(丹波市か? 八木か? どっちやねん?)
貞享四年(1687年)、芭蕉は「笈の小文」の旅に出る。翌貞享五年3月、芭蕉はお気に入りの門人・杜国(万菊丸)と伊勢で合流し、4月10日に奈良を訪れる。友人に宛てた手紙によると、芭蕉と万菊は、有原寺(在原寺)、歌塚、布留社(石上神社)、布留の滝(桃尾の滝)を訪ね、「宿泊地」に到着する。そして、
〜草臥て(くたびれて)宿借る此や藤の花〜
という句を詠む。歩き疲れて宿を借りようとしたら、藤の花が盛りで心惹かれた。という句ですね。
問題は、「丹波市、やぎと云処、耳なし山の東に泊る。」というキャプションがついているんですね。そこで、芭蕉と万菊がこの日泊まったのは、丹波市なのか、八木なのかという論争があるらしいです。丹波市はかつての天理市の中心地で、今の天理駅はかつて「国鉄丹波市駅」でした。平成の大合併で、丹波市(たんばし)というのができてややこしいが、こちらは「たんばいち」です。八木は今も橿原市の中心地、交通の要所ですね。
これふつうに読めば、丹波市、八木と回り、最後は「耳成山の東」に泊まったと取れます。つまり、丹波市は単に通過しただけというのが、「八木に泊まったにちがいない」説ですね。ただしひとつ問題がありまして、八木は耳成山のすぐ近くですが、今も昔も「耳なし山の西」なんですね。まあ、このあたりはあまりつっこまないようです。
それに対して、「丹波市に泊まったに決まってるやろ」派は、距離的に一日で八木まで歩ける訳ないやろが・・・というのが、拠り所ですね。芭蕉さんがいくら健脚でも、すでに45歳だぞ! 奈良からまっすぐ来られたのではなく、色んな所回っておられるんだから、余計八木までは無理だぞ、という感じです。せやし、泊まったのは丹波市の旅館にちがいない! というところでしょうか。
まあどちらでもいいような気もするんですが、地元でもあるので検証してみることにしました。奈良の猿沢池を出発し、上街道(古代の上つ道)を南下、櫟本の歌塚、在原寺跡、石上神社に寄りながら丹波市まで行きます。さらに南下し、桜井から東西の幹線道路である横大路に入り、八木まで行ってみます。
ただし、私は彼らのように歩きではなく、文明の利器自転車を利用させてもらいます。ですから正確な検証なんてできないんですが、まあ実感でなんとか答は出るのではないかと思います。
前置き長くなりました。以下レポートです。
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猿沢池が今日のスタート地点です。 |
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亀だ! 3兄弟。 |
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道祖神に旅の安全を祈ります。芭蕉さんみたいだなあ! |
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上街道を南下。 |
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昔ながらの蚊帳屋さんも営業中。 |
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この道は、かつてお伊勢参りの道としても利用されていました。 |
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帯解(おびとけ)寺通過。芭蕉さんも多分寄らはったと思うんですが、記録にはありません。一句詠んどいてくれたらよかったのに。 |
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昔の街道の雰囲気をよく残しています。 |
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楢神社通過。 |
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柿本人麻呂ゆかりの「歌塚」に寄ります。 |
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歌塚です。ここには芭蕉さんも来ました。 |
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柿本人麻呂さんです。 |
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在原寺跡に来ました。ここは芭蕉さんも来ました。 |
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道標の裏側は「在原神社」になっています。リバーシブルですね。 |
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在原寺跡です。ゲートボール場になってるみたいです。 |
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芭蕉さんの句碑です。 〜うぐひすを魂にねむるか嬌柳〜 この句と在原寺とは、直接の関係はないようです。 |
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謡曲「井筒」と深い関係があるみたいですね。 |
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業平と紀有常の娘とが、背丈を比べあった井戸の跡です。 |
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天理教の施設が増えてきました。 |
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天理教会本部です。 |
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石上神宮(布留社)に来ました。ここには芭蕉さんも来ました。 |
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神の鳥たち。 |
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私も喉カラカラやねん。 |
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本殿に参拝します。 |
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ここから山の辺の道ハイキングコースが始まります。 |
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山の辺の道ハイキングコースを進み、内山永久寺跡に来ました。芭蕉さんの句碑が建っています。 〜うち山や外様しらずの花ざかり〜 今回の「笈の小文」の旅で詠まれた句ではなく、芭蕉さんの若き日に詠まれた作品だとのこと。 |
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ということです。 |
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かつては広大な寺域を誇ったが、明治の廃仏毀釈ですべてが失われてしまったそうです。本堂の前にあったという池だけが、静かに存在します。 |
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ということです。 |
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こんな感じです。 |
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さて、上街道に戻り、丹波市にやってきました。造り酒屋さんです。 |
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ここから不自然に道幅が広くなっています。かつての市場の跡です。道の白い所に、川が流れていました。 |
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一軒だけ、市場の木造アーケードが残っています。 |
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上街道。田園地帯を進みます。 |
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左に竜王山。右に三輪山。しかし暑いわあ。頭がクラクラしてきました。 |
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芭蕉の句碑到着。例の「草臥れて宿借る此や藤の花」の句碑です。ちゃんと藤棚の下に立っています。 |
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丹波市に泊まったとする説を支持する人が建てたんでしょうね。 |
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この説明板には、どこに泊まったのかということについては書かれていません。 |
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大和(おおやまと)神社に寄ります。戦艦大和の守護神の役割を担っていました。大和関連の行事があるらしく、ろうそくが並べられていました。 |
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柳本のあたり。 |
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JR巻向駅通過。 |
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卑弥呼の墓ではないかとも言われている、箸墓です。 |
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大神(おおみわ)神社の大鳥居です。神社には寄りません。 |
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桜井で、横大路に入ります。東西をつなぐ幹線道路です。 |
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JR香具山駅通過。 |
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問題の耳成山です。 |
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八木の町に入ってきました。古い家が建ち並んでいます。 |
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八木札の辻到着。中街道(古代の下つ道)と、横大路とが交差する交通の要所です。現在も八木の町は、近鉄の乗り換え駅として同じような役割を担っています。 一応、このあたりが芭蕉さん御一行お着きの場所だと思います。 |
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「八木に泊まった」派が建てた句碑ですね。 |
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こちらははっきりと、八木に泊まったと断定しています。 |
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八木の町並み。 |
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ここからはオプショナルツアー。 おふさ観音の「風鈴祭り」を見学します。 |
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境内のいたる所に風鈴。妙なる音色を響かせています。 |
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よく鳴っています。 |
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天井に吊された風鈴。 |
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本当に涼しげな音が響いています。奈良へ来られた時には、ぜひお寄り下さい。 |
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オプショナルツアー第2弾。ホテイアオイ(布袋葵)の群生地に来ました。 |
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咲いてますでしょ。 |
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なかなかきれいですよ。 |
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ホテイアオイ。奈良へ来られた時には、ぜひお寄り下さい。 |
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群生地に別れを告げます。 さて本日のテーマですが、私の考えは・・・ |
芭蕉と万菊丸は、はたして奈良から天理の丹波市まで歩いたのか。それとも、頑張って橿原市の八木まで歩いたのか。さあどっち?
コースはほぼ同じような所をたどれたと思います。同じ芭蕉の追体験でも、大阪は「点」を回るだけ。奈良は芭蕉さんが歩いたと思われる道が、ほぼそのまま残っているのがすばらしい。道行も追体験したような気になれます。それはさておき、
最初に書いたように、私は自転車で回りました。気温35度は確実に超えているだろう猛暑の中、フラフラになりながら、ゆっくりと寄り道もしながら走りました。その結果、猿沢池から八木まで、所要3時間20分、メーターは36.7qを記録していました。で、思ったのですが、歩きでも何とか八木まで行けるのではないかと。何となくそう思っただけなんですが。
芭蕉翁45歳で、すでに老境の域ですが、当時はどこへ行くのも歩きが当たり前。約十里ぐらいは、一日で歩いていたのではないでしょうか。そして、旧暦の4月と言えばすでに初夏だとは思いますが、真夏に比べたらまだ快適に歩けたのではないでしょうか。そしてそしてもうひとつの理由。はっきりしたことは知らないのでよくわかりませんが、複数の本に書いてあったことです。同行の門人杜国(万菊丸)ですが、芭蕉翁お気に入りの門人だったそうです。まあ時代もちがいますから、今の感覚でどうこう言えることではないのですが、とにかく万菊丸のことが大好きだったんですね。しかも「笈の小文」の旅の前半は、芭蕉さん単独行動。伊勢でやっと合流できました。今が一番いい時ですよ。二人仲良く大和路を、飛び跳ねるように歩いたのではないでしょうか。こんな時って、いくらでも歩けるのではないでしょうか。まあこれぐらいで終わっておきます。